現実の中の虚構の中の現実なのだろうか

以前、漫才は現実の中の虚構でアニメは虚構の中の現実なのではないか、と思った。

そのきっかけはいつしかのM-1銀シャリが優勝した時に「最近はショートコント芸人ばかり台頭してたが、やっと正統派漫才師が優勝した」というコメントを見たことである。コントと漫才って何が違うのだろうと思い調べてみたらコントはキャラを演じるが漫才はあくまでも本人が行う、という違いだとしているところが多かった。

しかし、うまく納得がいかなかった。なぜなら日常生活で漫才みたいな会話はなされないからである(まあ、実生活の中でも「漫才みたいだな」と評されるような会話はあるのだが、漫才みたいだなと評されること自体漫才が普通の会話とは異なるものだということの証左であるような気もする)。つまり、端的に言えば「いやいや、あなたたち、漫才をする人を演じているじゃあないですか」ということである。

逆にアニメや漫画などは虚構でありながらもその中で一本の筋が通ってることが求められている気もする。

結局虚構の中のズレ的なものが面白さの源泉なのかなあ、これ自体一ヶ月くらい飛び飛びで考えていたので自分の中でもワケ分からなくなってしまった。とりあえずこの辺でおしまい。

まあでも、漫才は虚構かもしれないが、漫才がなされているということは現実だよね。

誰より何も分からない

ちょうど先ほど思いついたのでここに。

「誰が言ってるかよりも何を言っているかの方が大事だろう」という言説がある。私もそれと同じような思いを持っていた。私自身、誰が言っているかの部分での判断で言ったことを受け入れてもらえたこともあればその逆のこともあり、そのうえで言ってることの内容で判断してほしいという思いがあった。

しかし、言語というものが私的経験を他者に伝える記号にすぎないとするならば違う経験を保有する人間同士で言葉の意味が変わってしまうのではないか?言葉は文脈によって意味合いが異なることは知られていることであるが、その人のそれまでの人生がここでいう文脈にあたるのではないか?という疑念である。

金脈を掘り当てれば大成功だった昔の時代とは違い、今は文脈を読み当てる事が必要となってきている。この視点は大事であろう。

ただ、この意見を突き詰めていくと「同じ川には二度と入れない」ように同じ人間が放つ同じ言葉でも意味が変わってしまうのではないか。

 

の後半部分でも述べた「ただの私的体験の羅列となってしまう」という問題である。

結局またグルグル回ってこの話になってしまった。うーん、思考が詰まったのでとりあえずここで終わり

抽象を中傷しない

抽象を殴るな、具体を殴れ。それなりの昔に思いついた言葉です。

例を出せば、現実に気に入らない人がいたとしてそれについて文句言いながら(その人が男なら)「〜〜だし、男はクソ」みたいに締める文章(男の部分が女だったり老人だったり政府だったり、運動家だったりする)を書くのはやめましょう、とかそういうことを意味した言葉です。

人間は本来具体的な何かに怒りを覚えるんだと思います。例えば、上記の「男はクソ」の例で言えばその人が今まで会った男について怒りを覚えてるはずで、それを抽象的概念である「男」に置き換えるのは如何なものかと思うわけであります。

しかし、この言説にも問題がある。一つ目はその具体が本当に具体なのかという点です。詳しく言えば、人間の記憶フィルターを通していく中で具体がもやもやっと変化して具体でなくなってしまう、抽象とまでは行かなくてもそれに似たものへと近づいてしまう、という点。もう一つは、具体を徹底して「その時、その社会背景や歴史の中、その自分の心理状態で見た」〇〇、という風に扱って要素を分解しすぎると最早なんの意味も持たないという点。共通項などほぼない。全てがただの私的体験の羅列となってしまう。

ただ抽象を殴ることによって流れ弾が他の人に当たり、戦火が拡大していくのには賛同しかねるんですよね。さて、どうしたものか。

 

【追記(10/12)】

最近生きていて漠然とした存在に対する怒りがふつふつ湧いてきました、自分でもどういうことなのか良くわからなくなってきましたとさ、ちゃんちゃん

現在進行形は嫌われているようである

以前、「苦労した人間の話は後から語られるときは美談として語られるが現在進行形で苦労している人間は忌避される傾向があり、他人の不幸ってコンテンツなんだよな」といった趣旨のツイートを見たことがある。(多分君に友達はいらないさんだったと思うが)

これと同じような現象にオタクが自慰行為を示すのに「致した」を用いるというのがあるような気がする。オナニーという言葉はあまり使われないイメージがある。多分語感が汚いというのもあると思うが、現在進行形っぽいからともいえないか?

化粧にしてもそうだ。化粧した後の顔を好む者は多いと思われるが、電車内で化粧をしているという状態を喜んで見るものは少ない。後は、食べている時の口の中や食肉の加工の工程を見ることなども好む人は少ないように思える。妊娠という事実は喜ばれるが、それに至るセックスの事実は語ることを忌避されがちな気がする。

なーんかこれ、不気味の谷現象っぽくないですか?思い出補正(というより記憶という形に処理する際の加工と言った方がそれっぽいか?)によって作られたふわふわしたイメージに近くはあるけど微妙に違うために嫌悪感を覚えるのかもしれない。根拠はないのでアレなんですけども。

一方で逆に現在進行形の方が好まれることもある。雪が降っている時の瞬間や景色、あるいはスポーツとか?と思ったがあれも現在進行形が好まれているというよりも変化した(言うならば傾きが変化した、と言うイメージ)ところが好まれているのではないかという疑念とこの疑念はこじつけなのではないかという気持ちもある。

今回は95%僕の偏見の可能性が高いので「思われる」を多用したが、うーん、よく分からないな、誰か何かいいアイディアあったら教えてください。また加筆するかもしれません、取り敢えず終わり。

帯にも襷にもならないパラドックス

こんばんは。呆れ霹靂です。

早速ですが本題に入ります。「本気で取り組めば簡単に済むけど簡単だと思って取り組むと難しい」みたいなことってありますよね?これってパラドックスなんじゃないかと僕は一瞬思ったわけです。まあでもよく考えればわかるんですがこれはただ単に「帯に短し襷に長し」な状態であるだけなわけじゃないですか。多分こういうパターン結構多いですよね。

例えば嘘つきのパラドックス。「私は嘘つきである」という発言をするとその「私は嘘つきである」という発言も嘘ということになり、「私は嘘つきではない」と言ってることになる。しかし、もし「私は嘘つきではない」ということならばやはり「私は嘘つきである」ということになる…(以下無限ループ)という所謂な感じのやつです。

いや、でもこれただ単に「全てのことに嘘つけるほどの嘘つきを名乗るほどではないが(全てのことに嘘をつく人間が真に嘘つきと呼べるのかどうかは今は置いておきましょう)、嘘つきではないと言えるほど嘘をつかないわけではない」ってだけの話じゃないですか。少なくとも人間達はそう判断するように思えます。結局嘘つきという概念も人間が生活していくうえではただ類推の範囲内にあればいい程度のものなのではないでしょうか。

人食いワニのパラドックスにせよそうです。ワニの質問の中の「これから何をするか」の”これから”が「本当にこれ以降の全てのことという意味ではないが、この言葉を発した後すぐのことを指すわけではない」ということですからその辺の水でも飲んで「ハズレ」とでも言ってから子供を食ってしまえばいいでしょう。(正誤判定を出すまでが「これから」ということにしてしまえばいいんじゃないすかね?)

昔予備校教師が「『チンパンジーが適当にパソコンをタイプしてるうちにシェークスピアの文章を錬成する可能性がある。人間の叡智とは一体何なのだろう?』などと昔の学者が議論した、というような話があったが、あんなのは馬鹿げている。なぜなら人間が持つ時間には限りがあるからだ。その限られた時間で何をするのかが人間の営みの基本なわけでしょ?」などと言っていたのを思い出す。うーん、完全に着地点を見失ったなあ…

僕はこういう線引きをあまり肯定する気にはなれませんが、まあ世の中そんなもんですよね。という感じで取り敢えず締めます、それでは。

多分全部この話に落ち着く

最近かわいそうランキングとかいう言葉流行ってるじゃないですか。(他人のアイディアを勝手にこのブログで紹介していいのだろうかとか今のはただ単に僕のフォロー傾向をひけらかしたにすぎないでしょとかその辺はとりあえず端に置いといて)

あの概念の、所謂"良い"人間(世間的に見て正しいとされる人間と表現した方が良いのかなあ)に見られるふわふわした矛盾みたいなものにふわふわしたものでカウンターパンチ喰らわせてるところ、が僕は好きなんですけどでもあの概念だけでは不十分な感じもしているんですよね。というのも、別にかわいそうランキングって所謂ポリコレ民だけではなくて皆さんに共通して存在してるものじゃないですか。

僕はその辺も含めて「人間は類推する感情に過ぎない」って言うことにしてるんですよ。多分これから色々とだらだら垂れ流していくと思うんですけどこれの源流はこの言葉だってことだけ意識してもらえると幸いです。最初に類推を行うのは自身の内的なもの(人はそれをココロと呼んだり本能と呼んだりするのだろうけどめんどくさいから僕は感情と言うことにした)で、そこから先は今までの環境と経験の累積と時々感情の視点でされるものなんじゃないかなあなどと思っている。具体例は今後つらつらと書いていきます、多分。