存在とは無限に発散した自己のメタ思想の極限な気がする

自分のことが好きとか「自分のことが好き」な自分が嫌いとか「『自分のことが好き』な自分が嫌い」になれるところが好き、とかその辺をlim,鍵括弧の数→∞にした結果が存在するってことなんじゃないかなあなどと思った。

年の顛末

年末だ。みんな振り返る時期となった。振り返ることは良いことだ。振り返ることに価値を見出せる人はきっと毎日前を向いて進んでいる人だろう。もしかしたら振り返りながら前に進んでいるのかも、別れ際の友人が手を振りながら離れていくみたいに。それはきっと良いことだ。僕は過ぎ去った今を振り返りは進み、また過ぎ去った未来を振り返って進み、その繰り返しがだんだんどんどん速くなって、終いにはぐるぐる回りながら歩いているみたいなものだからどっちが振り返るべき方向か分からなくなってしまった。もっと速く回れれば竹とんぼみたいに空を飛べるのだろうか。

ゴールへ向かう三秒前

「風邪を引いてしまいました。私はそっちょくな性格なのに」

「漢字の読み方が違うし、風邪をひかないのは馬鹿の方だろう」

「どうしよう、こんな時間にアーケードにいるなんて」

「何言ってるんだ、学生の本分はベイブレードだろうが」

「靴も新しいの買ってもらったのに」

「そうだな、友人ができるといいな」

「練習してもいい?」

「どうぞ」

「こんにちは、年齢は19歳です。最後のティーンです」

「おいおい、19なのはお前のIQだろうが。まだお前は最初のティーンだ」

「まただわ、またよ。私うまくいかないの」

「まだだ、まだだよ。骨が折れた方が骨は強くなる」

「こんなモノトーンな世界」

「色をつけるのが肝要だ。まずは十人十色からだ」

「あなたと話すと楽しいわ、彩りがあるわ」

「よせよ、俺には花は咲かないんだ」

「そんな、根拠がないわ」

「根拠はないが、根も葉もあるさ」

「ここには犬も猫もいないのね」

「そりゃ、そうだ、落ち着いたカフェに温度はいらない。根っこさえあれば」

「あなたは強いのね」

「俺もお前も天元次第さ」

「あなたの顔、綺麗ね」

「ああ、俺は観葉植物だからな」

「まるで作られたみたい」

「ああ、俺は観葉植物だからな」

「あなたは気にならないの?」

「ああ、俺は観葉植物だからな」

「あなた、優しいのね」

「ああ、俺は観葉植物だからな」

綺麗なものは汚いを排除しているということを。

最近、心地良い環境を推奨するような言説が増えてきた気がする、「批判は気にするな」「良いところを探して行こう」「叱るより褒めよう」「つまらないと言う人間より褒めてくれる人間を大事にしよう」などなどなど……

もちろん、これらの考えを完全に否定する気はない。心地良い方が心地悪いよりは良いだろう、きっと多分。

でも少し不安な気持ちになることもある。自分の中にもあるだろう心地の悪い自分を抑え、最悪殺すまでに到るのではないかという不安である。心地の悪い自分にとって心地の良い環境は心地悪かったりする。この時に当然のように心地の悪い自分が削除されてしまう世界というものは少し恐ろしいと思ってしまう。

綺麗なものだけを祭り上げ、汚いものを遠ざけて無意識のうちに追放して最悪殺してしまう世の中で自分が最後まで追放されないという保証はどこにもなく、美しいものを志向していく世界に僕はついていけるのだろうか。

どっちが近くのお知らせかい?

「知覚世界が違うだけで知覚世界内の価値観は一緒」と「同じ世界を感じながら生きている」のどちらが気分が良いだろうか?

逆転スペクトルという話は皆さんご存知だろうか、いわゆる「私の見ている赤とあなたの見ている赤は同じ赤色なのだろうか」という問いである。あるいは自分がズキズキするこの感覚が他人だとチクチクしたりフワフワしたり感じているのではないかという懐疑を持ったことがある人ならばそれと同じような話である。

さてここで、この話をもっと広げてみよう。私は、知覚世界が違うだけで知覚世界内の価値観は一緒なのではないかという一種の仮説を提案したいと前々から思っていた。

つまり、緑が好きな人と赤が好きな人は実は知覚世界においては同じ色を好きになっているのではないか、丸が好きな人と直線が好きな人も知覚世界においては同じような形状のものに見えていてそれを二人とも好きになっているのではないか、とんかつが好きな人も寿司が好きな人も知覚世界内では同じような食感、味、風味を感じているのではないかという説である。思考や信念、考え方にも同じように当てはめられる。

もちろん、他人の知覚世界は簡単には測れない以上、真偽は分からないし、仮にこの仮説が本当だとすると現実世界が知覚世界として人間に取り込まれていく中でどれだけの変換がなされているのだと、頭がおかしくなりそうな気分になってしまう気がする。

では、初っ端の問いに戻ろう。上記で示したように「人類は皆知覚世界内の価値観が共通のものである」のと「人類は共通の世界を見て聞いて感じている」の、皆さんはどちらが好み?

二と0と1

メタのメタはもはやメタの一部として(延長線上のものとして)扱われる

小学生のどちらが上手(うわて)かの無限循環の堂々巡り

マイナスのマイナスはプラスに戻る

二乗してマイナス1となる虚数iを導入すると二乗してi虚々数は虚数の範囲内になる

二元論

 

なんかこの辺全部根底で繋がってるような気がしてならない