帯にも襷にもならないパラドックス

こんばんは。呆れ霹靂です。

早速ですが本題に入ります。「本気で取り組めば簡単に済むけど簡単だと思って取り組むと難しい」みたいなことってありますよね?これってパラドックスなんじゃないかと僕は一瞬思ったわけです。まあでもよく考えればわかるんですがこれはただ単に「帯に短し襷に長し」な状態であるだけなわけじゃないですか。多分こういうパターン結構多いですよね。

例えば嘘つきのパラドックス。「私は嘘つきである」という発言をするとその「私は嘘つきである」という発言も嘘ということになり、「私は嘘つきではない」と言ってることになる。しかし、もし「私は嘘つきではない」ということならばやはり「私は嘘つきである」ということになる…(以下無限ループ)という所謂な感じのやつです。

いや、でもこれただ単に「全てのことに嘘つけるほどの嘘つきを名乗るほどではないが(全てのことに嘘をつく人間が真に嘘つきと呼べるのかどうかは今は置いておきましょう)、嘘つきではないと言えるほど嘘をつかないわけではない」ってだけの話じゃないですか。少なくとも人間達はそう判断するように思えます。結局嘘つきという概念も人間が生活していくうえではただ類推の範囲内にあればいい程度のものなのではないでしょうか。

人食いワニのパラドックスにせよそうです。ワニの質問の中の「これから何をするか」の”これから”が「本当にこれ以降の全てのことという意味ではないが、この言葉を発した後すぐのことを指すわけではない」ということですからその辺の水でも飲んで「ハズレ」とでも言ってから子供を食ってしまえばいいでしょう。(正誤判定を出すまでが「これから」ということにしてしまえばいいんじゃないすかね?)

昔予備校教師が「『チンパンジーが適当にパソコンをタイプしてるうちにシェークスピアの文章を錬成する可能性がある。人間の叡智とは一体何なのだろう?』などと昔の学者が議論した、というような話があったが、あんなのは馬鹿げている。なぜなら人間が持つ時間には限りがあるからだ。その限られた時間で何をするのかが人間の営みの基本なわけでしょ?」などと言っていたのを思い出す。うーん、完全に着地点を見失ったなあ…

僕はこういう線引きをあまり肯定する気にはなれませんが、まあ世の中そんなもんですよね。という感じで取り敢えず締めます、それでは。