目標的

目標、接近中!50、40、30

撃てえええええええええええええ!!!

ドーーン!ダン!バンバーン!

やったか!?

目標、 依然として進行中!止まりません!

 

これは、怪獣映画などで見られるワンシーンでありますが、これは人生にも当てはまるのではないでしょうか。

たとえば、私が憂いーリゾートのピンポンでチャンピオンに挑んで5h浪費したのは今日のことです。憂いーリゾートのピンポンのようにネットインの球のみノーバウンド判定がつき、足は止まったままで面をいじっても飛ぶ方向はほぼタイミングのみで決まってしまうようなクソゲーでさえも"「チャンピオンを倒す」を達成するとスタンプを得ることができる"という風に目標として出てしまえば乗り越えるべきものとなってしまうのだ。さながらキツネの目に入ってしまった一房のブドウのように。一度目に入ってしまえば、それが取れなくても取らなくても酸っぱいものだと思わないとやっていけなくなってしまうようなものへとなってしまうのだ。目標を達成できなくてイライラしてもそれの解決方法は目標達成以外にない。いくらムカついて、近くのソファーを蹴ったり、憂いーリモコンを投げたり、ソフトのディスクを真っ二つに折ろうが、目標を達成する以外でこの鬱憤(目標という概念に敗北させられた屈辱)が晴らされることはそうそうないのである。ソシャゲなどもそうだ。ただの作業と化したものでも目標を設置されてしまうと、なんとなくそれを達成しないといけないような気がしてしまう。もちろん、目標が悪いのではなく目標の立て方が悪いのだろうし、それを否定するつもりはない。

 目標というものは魅力的で、だからこそ自分の目的に正しく沿うように立てなければいけないということである。やるべきとかやりたいとか自分の目的のための目標を立て、それを実行していかなければならないのだろう、多分。

人生というクソゲーだか神ゲーだか人によって評価の分かれるゲームにも目標を立てるべきだという人もいて、まあそれはそれで結構なことなのだが、目標を達成するという楽しみに囚われないで生きていきたいなあなどという目的を持ちながら生きている気がするので、どうにもこうにもやんぬるかな。

このブログ、どうにも末尾が嘆きで終わってしまうのはこういうところなのかもしれない。対象を決めてそれを倒すみたいなことをしないから良くないのかな。でもそれをしたくないのだよなあ、僕は。うーむ。

TODOリストとかも達成すれば一定の快楽を得られる気がするが、それに釣られて道すがらのストレスに晒されるのが嫌なのだが、あまり生存に向いていない志向なような気もしてきた。

ともかく、目標という存在は、ゲームがクリアできずイライラしているという一文で済む内容がブログになってしまうほどのものなのである。