自己照会

初回で自己紹介していなかったのでそれを今更するというような話です。

呆れ霹靂です。人生とは余分なものと現実からできていると思っています。まあこれがexandreAlの意味ですね。他にも意図はありますがまあここで語るようなことではございません。気付いている方ももしかしたら既にいらっしゃるかもしれませんが。

 個人的には余分なものの方が大事だと思ってます。勿論、私がとりあえず食うことに困ってないからこんな甘ったれたことを言えるのでしょうけどもね。欲も余ったれていますし。もっと切羽詰まると多分現実の方が大事になるのだと思われます。まあそういう意味では私の言説など取るに足らないのかなあ、と。まあ別に取るに足りなくても困ることはきっとないのでしょうけれど。

今まで、絶対的なものは存在しないと思いながら過ごしてきました。人間万事塞翁が馬、という言葉の意味的な捉え方が一番他人と共有しやすいかなと思います。もっと言えば、そもそも悪いものが本当に悪いのかという懐疑は結局捨てることはできませんでした。ここら辺は循環論法とかそもそも定義そのものだろとかそういう答えになるとは思うんですけどね、個人的にはしっくりこなかったのでこうなってるわけなんですけどね。

良いとか悪いとかではなく自分の内なる意志に従うというものを私の行動指針(勿論これに従いたくないという気分になればそれも認めるくらいの束縛力ですが)としていこうみたいな感じですね。

という訳でこれにて自己の照会作業はおしまいです。

何か書き損ねたと思ったら加筆します、では。

ししゅうのしないように

よい

良い曲だと思ったものに首を傾げたくなる大サビ、良い詩だと思ったものに蛇足のフレーズ、身から出たサビだ、即取り消し。なんてすることは出来ず。

 

 どうこう

自分がどこにいるか分からなくて「どーこ?」と呟いた。繰り返し繰り返し、絶え間なく、呟いた。だんだん鼓動が聞こえてきた。僕はここにいる。

 

 ⊃幼

ムカつくという感情も濁りきってしまえば無がつくとなり、関心は無関心に、感動は無感動に、無表情に無感覚になってしまう。

 

士気

死期の四季も選べず、軋む希死念慮、彼岸を僻んで此岸を志願、心刺すとも世殺さず、横たわっても無い予行、再々求める指揮と式、

 

G式

最近自分が自分でない気分になってしまう、体の無い魂と自意識だけを解放した存在になりたいとさえ

 

旋風木

暗闇の中の止まった扇風機ほど怖ろしいものはない、風を切り刻むお前は今夜は何を切り刻む?きょとんとした顔をしているがお前のその大きく広げた五本の手からは誇らしさが滲み出ているぞ、さあ、回せ回せ、千切りにしてしまえ、そこに浮かぶは一輪の花形かい?

 

 

Re:生きろ 

メールが届いた。件名に生きろと書いてあった。どう生きればいいのだろう?懸命に生きればいいのか、賢明に生きればいいのか。

 

課業がツ

蚊がついたので思い切り叩いた——気が付いた。九月になっていた。怪我疲れ怠さ。孤がついにやってくる。 これがかの時の流れ。

存在とは無限に発散した自己のメタ思想の極限な気がする

自分のことが好きとか「自分のことが好き」な自分が嫌いとか「『自分のことが好き』な自分が嫌い」になれるところが好き、とかその辺をlim,鍵括弧の数→∞にした結果が存在するってことなんじゃないかなあなどと思った。

年の顛末

年末だ。みんな振り返る時期となった。振り返ることは良いことだ。振り返ることに価値を見出せる人はきっと毎日前を向いて進んでいる人だろう。もしかしたら振り返りながら前に進んでいるのかも、別れ際の友人が手を振りながら離れていくみたいに。それはきっと良いことだ。僕は過ぎ去った今を振り返りは進み、また過ぎ去った未来を振り返って進み、その繰り返しがだんだんどんどん速くなって、終いにはぐるぐる回りながら歩いているみたいなものだからどっちが振り返るべき方向か分からなくなってしまった。もっと速く回れれば竹とんぼみたいに空を飛べるのだろうか。

天下夢想

昔は何か考えてたけどその内容を忘れてしまうことが多かったけど最近は何か考えていたのかどうか自体すら忘れてしまうことが多くなってしまったような気がする。

生きながらにして見る夢、生き夢、僕の思考はそれで生き埋めにされてしまうかもしれない。

ゴールへ向かう三秒前

「風邪を引いてしまいました。私はそっちょくな性格なのに」

「漢字の読み方が違うし、風邪をひかないのは馬鹿の方だろう」

「どうしよう、こんな時間にアーケードにいるなんて」

「何言ってるんだ、学生の本分はベイブレードだろうが」

「靴も新しいの買ってもらったのに」

「そうだな、友人ができるといいな」

「練習してもいい?」

「どうぞ」

「こんにちは、年齢は19歳です。最後のティーンです」

「おいおい、19なのはお前のIQだろうが。まだお前は最初のティーンだ」

「まただわ、またよ。私うまくいかないの」

「まだだ、まだだよ。骨が折れた方が骨は強くなる」

「こんなモノトーンな世界」

「色をつけるのが肝要だ。まずは十人十色からだ」

「あなたと話すと楽しいわ、彩りがあるわ」

「よせよ、俺には花は咲かないんだ」

「そんな、根拠がないわ」

「根拠はないが、根も葉もあるさ」

「ここには犬も猫もいないのね」

「そりゃ、そうだ、落ち着いたカフェに温度はいらない。根っこさえあれば」

「あなたは強いのね」

「俺もお前も天元次第さ」

「あなたの顔、綺麗ね」

「ああ、俺は観葉植物だからな」

「まるで作られたみたい」

「ああ、俺は観葉植物だからな」

「あなたは気にならないの?」

「ああ、俺は観葉植物だからな」

「あなた、優しいのね」

「ああ、俺は観葉植物だからな」

綺麗なものは汚いを排除しているということを。

最近、心地良い環境を推奨するような言説が増えてきた気がする、「批判は気にするな」「良いところを探して行こう」「叱るより褒めよう」「つまらないと言う人間より褒めてくれる人間を大事にしよう」などなどなど……

もちろん、これらの考えを完全に否定する気はない。心地良い方が心地悪いよりは良いだろう、きっと多分。

でも少し不安な気持ちになることもある。自分の中にもあるだろう心地の悪い自分を抑え、最悪殺すまでに到るのではないかという不安である。心地の悪い自分にとって心地の良い環境は心地悪かったりする。この時に当然のように心地の悪い自分が削除されてしまう世界というものは少し恐ろしいと思ってしまう。

綺麗なものだけを祭り上げ、汚いものを遠ざけて無意識のうちに追放して最悪殺してしまう世の中で自分が最後まで追放されないという保証はどこにもなく、美しいものを志向していく世界に僕はついていけるのだろうか。