選β

そいつはそこから自由になりたかった

俺は同じところに着くだけだ

そう言って紐を切った

その日からそいつは箱になった

開閉するだけの箱

周りはそいつを見て言った

不法投棄?遊具?オブジェ?

そいつは旅に出ることにした

電車に会いに行った

いいよね、君は一人でも電車だ

僕だって線路がないと曲がれない

車に会いに行った

いいよね、君は一人でどこへでも行ける

私は地面しか動けないよ

飛行機に会いに行った

いいよね、君は空も飛べる

我は助走が必要だ、君は垂直に動けるじゃないか

そうか、確かに垂直に動けるのは俺だけだ

紐を結び直し、彼は登り始めた

横を通ったヘリコプターが紐を断ち切る

そいつは底に落ちていった

そして放たれたその魂は

あらゆるものの周りに憑くようになった

朝起きて伸びをするとき

ボタンが押され

そいつは俺を動かす

価値勝ち山の狸

勝利には価値があるという言説は誰しもが聞いたことがあるだろう。要するに勝ちは価値ということである。

 

そもそも勝利は価値のあるものに対してつけられるものだ (例えば、スポーツの試合などで勝利の条件は一般に敗北の条件より満たしづらい) という話はあるがまあそれは置いておこう。 (書いている途中に勝利の条件を満たすための動機付けが価値にあるのでは? お互い負けに行くと負ける方が難しくなるので価値が最初なのでは? などの堂々巡りの疑問が湧いた 多分独立の軸を用意してあげるとスッキリする気がするが、うまく説明できる人がいれば教えてください)

 

一方で、価値があるからこそ勝つみたいな事象もある。例えば、どれが本物の【有名画家】の高級絵画でしょう?といった問題が出されたりする。あれの解説で行われる〇〇のこの部分が非常に【有名画家】的な筆使いで〜〜という言葉を聞く度に(それがそいつっぽさがあるという話は分かったよ。そうではなく、それのどこに美しさがあるのかなどを教えてくれよ)思うのは私だけではないだろう。この場合【有名画家】に価値があるからその作品も他の作品に勝つ(この表現が適切かは分からないが)となっているだろう。

 

他にも芸能人を見かけるというただの見るという行為にも価値があるものを見たことによる価値が生まれたりするよね。芸能人(という一般的には価値がつけられた状態の人間)が絵本を書いたり、個展を開けばそれだけで付加価値はつくし、価値判断の対象にもなることができる。

 

芸能人への恨みとかではなく、価値あるものにまた価値が集まるという事実、資本家にさらに金が集まる資本主義を憂いる人間のようにそのことをなんとなく悲しいと思っているだけである。

 

おしまい

ししゅうのしないようさん

TODOのつまり

黒く汚したレポート、中途半端な成績、ポイ捨てされた仕事、微かな記憶の予定、流れが詰まった時管

 

”ノマノレ

「こんなことしたら楽しむための管が詰まる」

「つまらない、つまらない」

「でももう管がない、くだらな…」

話すための管も詰まったらしい。

「っ……」

言葉も詰まった。

(間も……)

つまるところ……○、×、丸、罰、まるばつ、まるばつまるばつ、まるば、つまる……

 

USO

嘘笑いと空笑いの意味は同じなので当然空は嘘だということに気付いたが、それを言うことも出来ずに空虚な気分に、作りも嘘、愛想も嘘、壊疽、遅

目標的

目標、接近中!50、40、30

撃てえええええええええええええ!!!

ドーーン!ダン!バンバーン!

やったか!?

目標、 依然として進行中!止まりません!

 

これは、怪獣映画などで見られるワンシーンでありますが、これは人生にも当てはまるのではないでしょうか。

たとえば、私が憂いーリゾートのピンポンでチャンピオンに挑んで5h浪費したのは今日のことです。憂いーリゾートのピンポンのようにネットインの球のみノーバウンド判定がつき、足は止まったままで面をいじっても飛ぶ方向はほぼタイミングのみで決まってしまうようなクソゲーでさえも"「チャンピオンを倒す」を達成するとスタンプを得ることができる"という風に目標として出てしまえば乗り越えるべきものとなってしまうのだ。さながらキツネの目に入ってしまった一房のブドウのように。一度目に入ってしまえば、それが取れなくても取らなくても酸っぱいものだと思わないとやっていけなくなってしまうようなものへとなってしまうのだ。目標を達成できなくてイライラしてもそれの解決方法は目標達成以外にない。いくらムカついて、近くのソファーを蹴ったり、憂いーリモコンを投げたり、ソフトのディスクを真っ二つに折ろうが、目標を達成する以外でこの鬱憤(目標という概念に敗北させられた屈辱)が晴らされることはそうそうないのである。ソシャゲなどもそうだ。ただの作業と化したものでも目標を設置されてしまうと、なんとなくそれを達成しないといけないような気がしてしまう。もちろん、目標が悪いのではなく目標の立て方が悪いのだろうし、それを否定するつもりはない。

 目標というものは魅力的で、だからこそ自分の目的に正しく沿うように立てなければいけないということである。やるべきとかやりたいとか自分の目的のための目標を立て、それを実行していかなければならないのだろう、多分。

人生というクソゲーだか神ゲーだか人によって評価の分かれるゲームにも目標を立てるべきだという人もいて、まあそれはそれで結構なことなのだが、目標を達成するという楽しみに囚われないで生きていきたいなあなどという目的を持ちながら生きている気がするので、どうにもこうにもやんぬるかな。

このブログ、どうにも末尾が嘆きで終わってしまうのはこういうところなのかもしれない。対象を決めてそれを倒すみたいなことをしないから良くないのかな。でもそれをしたくないのだよなあ、僕は。うーむ。

TODOリストとかも達成すれば一定の快楽を得られる気がするが、それに釣られて道すがらのストレスに晒されるのが嫌なのだが、あまり生存に向いていない志向なような気もしてきた。

ともかく、目標という存在は、ゲームがクリアできずイライラしているという一文で済む内容がブログになってしまうほどのものなのである。

言語の権化

皆さん、目を閉じて想像してみてください。

 

ここで目を閉じてくれた方、目を閉じてから(これ、目を開けてくださいの指示が読めないやんけ)と思ってくれたかと思います。

さて冗談はこの辺りにして。

「右に傾く」という言葉がありますね。目を閉じても閉めてもどちらでも構いませんがこの状態について想像してみてください。

どのような状態を想像しましたか?

おそらく99%の人が右下斜めになっている状態を想像したのではないでしょうか。でもこれってよくよく考えると不思議ですよね?傾くというのはせいぜい斜めになる、程度の意味しかないはずです。何故右が"下の方に"傾くという同意が取れているのか。勿論、そういう意味だから。という答えもありましょうが、なぜこのような意味になったのか考えた結果以下の仮説が得られました。

通常、まっすぐなものが良いもの、傾いているものが悪いものという意識があり、かつ上と下では上の方が良いもの、下の方が悪いものというイメージがあるため、それの下の方と傾いているという概念が同一視されるようになって右下斜めの状態を右に傾く、と表現しているのではないか。

これ、右回り左回りにも同じ話が言えますね。丸というのは上の方で右に行く場合は当然下の方では左に行ってるわけですが、上の方を右回り左回りの基準にするのは同じような理由(上の方が下より偉いという人間の根幹的な感覚)なのでしょう。まあ人間は古来より、空や宇宙に夢を追いかけてきましたし、社長は上の階の方を自分の仕事部屋にしますし。納得はいきましょう(勿論、深海や地下などが好きな人もいるので一概に言い切ることはできませんが)。

 

さて、言葉と行動が密接に関わっているのだなあなどとなんとなく思ったわけですが、すると現代における言語というものはもしかすると人によって解釈がバラバラとなって行く時代なのではないかとも思うわけです。

例えば「こ」という文字を打つとき。「こ」がkとoを押した結果のものなのか、それとも「か」を下にずらすのかで見方は大きく変わる可能性があります。勿論、鉛筆で「こ」と書いていた時代も人それぞれ字の汚さやバランスは異なっていたでしょうし、同じ人でも一回として全く同じ「こ」は書けないわけでそういう意味では本当に統一された「こ」があるか、という話にもなるわけでございますが。その辺は私には分からないというかもし、そこを認めてしまいますと独今論、ひいては規範や経験の否定となってしまうわけでそこは今回話したいこととはそれるので割愛いたします。

 ということで言語だけでなく行動も大事だなあと思いました。例えばボードゲームをするときに戦略も大事だが、それと同じくらい普段の性格や行いによる補正もかかってしまうように。

 

exandreal.hatenablog.com

 

 で軽く述べた話に戻りました。またここに戻ってしまった。うむ。

コイントス十連続と従属人生とす

コインを10回投げると10回連続で表が出た。次に投げるときに表が出る確率はいくつか?答えは確率1/2だ。

これは今ではもう当たり前の話のように思われているだろうが、十一連続で表を出す確率も十連続表の後裏を出す確率も共に(1/2)^11の事象には変わりないのだ。しかし、人間は過去を結果として受け止める。すると十連続表の後の裏は十回表と一回裏というお話になり、起こる確率は11倍になるわけである。

さて、話は変わるがこの間、電車で6駅、20分のところに向かっていた時に、(今3駅通って10分経過した。残りは何駅で何分?)と思ったのが何故かこれと似たような話に感じた。

あるいは人生も。今二十年連続、どちらかといえば幸せな時間を過ごしてきた。ではこれから一年幸せな時間を過ごせる確率はいくつ?1/2

いやいや、これはフェイクで。人生は従属事象だ。多分。

自己照会

初回で自己紹介していなかったのでそれを今更するというような話です。

呆れ霹靂です。人生とは余分なものと現実からできていると思っています。まあこれがextraandreAlの意味ですね。他にも意図はありますがまあここで語るようなことではございません。気付いている方ももしかしたら既にいらっしゃるかもしれませんが。

 個人的には余分なものの方が大事だと思ってます。勿論、私がとりあえず食うことに困ってないからこんな甘ったれたことを言えるのでしょうけどもね。欲も余ったれていますし。もっと切羽詰まると多分現実の方が大事になるのだと思われます。まあそういう意味では私の言説など取るに足らないのかなあ、と。まあ別に取るに足りなくても困ることはきっとないのでしょうけれど。

今まで、絶対的なものは存在しないと思いながら過ごしてきました。人間万事塞翁が馬、という言葉の意味的な捉え方が一番他人と共有しやすいかなと思います。もっと言えば、そもそも悪いものが本当に悪いのかという懐疑は結局捨てることはできませんでした。ここら辺は循環論法とかそもそも定義そのものだろとかそういう答えになるとは思うんですけどね、個人的にはしっくりこなかったのでこうなってるわけなんですけどね。

良いとか悪いとかではなく自分の内なる意志に従うというものを私の行動指針(勿論これに従いたくないという気分になればそれも認めるくらいの束縛力ですが)としていこうみたいな感じですね。

という訳でこれにて自己の照会作業はおしまいです。

何か書き損ねたと思ったら加筆します、では。