綺麗なものは汚いを排除しているということを。

最近、心地良い環境を推奨するような言説が増えてきた気がする、「批判は気にするな」「良いところを探して行こう」「叱るより褒めよう」「つまらないと言う人間より褒めてくれる人間を大事にしよう」などなどなど……

もちろん、これらの考えを完全に否定する気はない。心地良い方が心地悪いよりは良いだろう、きっと多分。

でも少し不安な気持ちになることもある。自分の中にもあるだろう心地の悪い自分を抑え、最悪殺すまでに到るのではないかという不安である。心地の悪い自分にとって心地の良い環境は心地悪かったりする。この時に当然のように心地の悪い自分が削除されてしまう世界というものは少し恐ろしいと思ってしまう。

綺麗なものだけを祭り上げ、汚いものを遠ざけて無意識のうちに追放して最悪殺してしまう世の中で自分が最後まで追放されないという保証はどこにもなく、美しいものを志向していく世界に僕はついていけるのだろうか。

どっちが近くのお知らせかい?

「知覚世界が違うだけで知覚世界内の価値観は一緒」と「同じ世界を感じながら生きている」のどちらが気分が良いだろうか?

逆転スペクトルという話は皆さんご存知だろうか、いわゆる「私の見ている赤とあなたの見ている赤は同じ赤色なのだろうか」という問いである。あるいは自分がズキズキするこの感覚が他人だとチクチクしたりフワフワしたり感じているのではないかという懐疑を持ったことがある人ならばそれと同じような話である。

さてここで、この話をもっと広げてみよう。私は、知覚世界が違うだけで知覚世界内の価値観は一緒なのではないかという一種の仮説を提案したいと前々から思っていた。

つまり、緑が好きな人と赤が好きな人は実は知覚世界においては同じ色を好きになっているのではないか、丸が好きな人と直線が好きな人も知覚世界においては同じような形状のものに見えていてそれを二人とも好きになっているのではないか、とんかつが好きな人も寿司が好きな人も知覚世界内では同じような食感、味、風味を感じているのではないかという説である。思考や信念、考え方にも同じように当てはめられる。

もちろん、他人の知覚世界は簡単には測れない以上、真偽は分からないし、仮にこの仮説が本当だとすると現実世界が知覚世界として人間に取り込まれていく中でどれだけの変換がなされているのだと、頭がおかしくなりそうな気分になってしまう気がする。

では、初っ端の問いに戻ろう。上記で示したように「人類は皆知覚世界内の価値観が共通のものである」のと「人類は共通の世界を見て聞いて感じている」の、皆さんはどちらが好み?

二と0と1

メタのメタはもはやメタの一部として(延長線上のものとして)扱われる

小学生のどちらが上手(うわて)かの無限循環の堂々巡り

マイナスのマイナスはプラスに戻る

二乗してマイナス1となる虚数iを導入すると二乗してi虚々数は虚数の範囲内になる

二元論

 

なんかこの辺全部根底で繋がってるような気がしてならない

思考の保存料は無添加か

ツイートを消した時思考が削除されたような気がした。

以前話した気もするが、高三の時にツイートを全て消した。まあ消したこと自体そんなに後悔はしていないのだが、高三以前の思考はどういうものだったのかが分からなくなってしまって少し残念に思う気持ちもあった。

でもそもそもツイッターをやってなかった時もツイッターで思考してそれをいちいち消してるのと同値ではないか、後者だけを悲しむのはどうなんだろう、みたいな気持ちもある。逆に過去を保存しておいても考えが変わって過去の自分に賛同できなくなればそれはそれであまり保存した意味があるとは言えないような気もする。

保存したり保存し損ねたりした結果が今の自分なんだからまあ、それはそれで楽しむのも一興なのかね

現実の中の虚構の中の現実なのだろうか

以前、漫才は現実の中の虚構でアニメは虚構の中の現実なのではないか、と思った。

そのきっかけはいつしかのM-1銀シャリが優勝した時に「最近はショートコント芸人ばかり台頭してたが、やっと正統派漫才師が優勝した」というコメントを見たことである。コントと漫才って何が違うのだろうと思い調べてみたらコントはキャラを演じるが漫才はあくまでも本人が行う、という違いだとしているところが多かった。

しかし、うまく納得がいかなかった。なぜなら日常生活で漫才みたいな会話はなされないからである(まあ、実生活の中でも「漫才みたいだな」と評されるような会話はあるのだが、漫才みたいだなと評されること自体漫才が普通の会話とは異なるものだということの証左であるような気もする)。つまり、端的に言えば「いやいや、あなたたち、漫才をする人を演じているじゃあないですか」ということである。

逆にアニメや漫画などは虚構でありながらもその中で一本の筋が通ってることが求められている気もする。

結局虚構の中のズレ的なものが面白さの源泉なのかなあ、これ自体一ヶ月くらい飛び飛びで考えていたので自分の中でもワケ分からなくなってしまった。とりあえずこの辺でおしまい。

まあでも、漫才は虚構かもしれないが、漫才がなされているということは現実だよね。

誰より何も分からない

ちょうど先ほど思いついたのでここに。

「誰が言ってるかよりも何を言っているかの方が大事だろう」という言説がある。私もそれと同じような思いを持っていた。私自身、誰が言っているかの部分での判断で言ったことを受け入れてもらえたこともあればその逆のこともあり、そのうえで言ってることの内容で判断してほしいという思いがあった。

しかし、言語というものが私的経験を他者に伝える記号にすぎないとするならば違う経験を保有する人間同士で言葉の意味が変わってしまうのではないか?言葉は文脈によって意味合いが異なることは知られていることであるが、その人のそれまでの人生がここでいう文脈にあたるのではないか?という疑念である。

金脈を掘り当てれば大成功だった昔の時代とは違い、今は文脈を読み当てる事が必要となってきている。この視点は大事であろう。

ただ、この意見を突き詰めていくと「同じ川には二度と入れない」ように同じ人間が放つ同じ言葉でも意味が変わってしまうのではないか。

 

の後半部分でも述べた「ただの私的体験の羅列となってしまう」という問題である。

結局またグルグル回ってこの話になってしまった。うーん、思考が詰まったのでとりあえずここで終わり