言語の権化

皆さん、目を閉じて想像してみてください。

 

ここで目を閉じてくれた方、目を閉じてから(これ、目を開けてくださいの指示が読めないやんけ)と思ってくれたかと思います。

さて冗談はこの辺りにして。

「右に傾く」という言葉がありますね。目を閉じても閉めてもどちらでも構いませんがこの状態について想像してみてください。

どのような状態を想像しましたか?

おそらく99%の人が右下斜めになっている状態を想像したのではないでしょうか。でもこれってよくよく考えると不思議ですよね?傾くというのはせいぜい斜めになる、程度の意味しかないはずです。何故右が"下の方に"傾くという同意が取れているのか。勿論、そういう意味だから。という答えもありましょうが、なぜこのような意味になったのか考えた結果以下の仮説が得られました。

通常、まっすぐなものが良いもの、傾いているものが悪いものという意識があり、かつ上と下では上の方が良いもの、下の方が悪いものというイメージがあるため、それの下の方と傾いているという概念が同一視されるようになって右下斜めの状態を右に傾く、と表現しているのではないか。

これ、右回り左回りにも同じ話が言えますね。丸というのは上の方で右に行く場合は当然下の方では左に行ってるわけですが、上の方を右回り左回りの基準にするのは同じような理由(上の方が下より偉いという人間の根幹的な感覚)なのでしょう。まあ人間は古来より、空や宇宙に夢を追いかけてきましたし、社長は上の階の方を自分の仕事部屋にしますし。納得はいきましょう(勿論、深海や地下などが好きな人もいるので一概に言い切ることはできませんが)。

 

さて、言葉と行動が密接に関わっているのだなあなどとなんとなく思ったわけですが、すると現代における言語というものはもしかすると人によって解釈がバラバラとなって行く時代なのではないかとも思うわけです。

例えば「こ」という文字を打つとき。「こ」がkとoを押した結果のものなのか、それとも「か」を下にずらすのかで見方は大きく変わる可能性があります。勿論、鉛筆で「こ」と書いていた時代も人それぞれ字の汚さやバランスは異なっていたでしょうし、同じ人でも一回として全く同じ「こ」は書けないわけでそういう意味では本当に統一された「こ」があるか、という話にもなるわけでございますが。その辺は私には分からないというかもし、そこを認めてしまいますと独今論、ひいては規範や経験の否定となってしまうわけでそこは今回話したいこととはそれるので割愛いたします。

 ということで言語だけでなく行動も大事だなあと思いました。例えばボードゲームをするときに戦略も大事だが、それと同じくらい普段の性格や行いによる補正もかかってしまうように。

 

exandreal.hatenablog.com

 

 で軽く述べた話に戻りました。またここに戻ってしまった。うむ。